コラム3|田倉社長にバスの運転を教えてもらう

普通免許でバスは運転できる。それは、「コラム1」で説明した通りだ。しかし、実際に運転するとなると不安である。普通の車とは車体がまるで違うのだから。カーブを曲がるにも、コンビニに停めるにも、自信がない。どうしたものか、と悩んでいると、その様子を察した田倉社長が一言。

「俺が教えてあげよっか?」

なんと、田倉社長が直々に運転を教えてくれることになったのだ。



当日、はじめての運転を前にこんなアドバイスを受ける。

「バスの運転は2速から。1速は使わないから」

ぼくたちのバスはマニュアルだが、1速では馬力が足りないのだろう。2速で発進するのだ。ひととおりの手順を見せてもらって、いざ、運転席に座る。

「クラッチの感覚を掴むために、まずはアクセルを使わずに走ってみて。」

なにせ、マニュアル車自体が教習所以来だ。エンストを繰り返すこと数回。だんだんクラッチの感触が掴めてきた。そして、アクセルを解禁する。

「バスで半クラッチはNG。バスでやるとクラッチ板が一瞬で焼けてしまう。」

「クラッチを離しきってからアクセルを踏む! これは徹底して。」

「ギアから手は離さない!」

すべての動作がぎこちなく、アクセルの踏み込みも田倉社長とは比べものにならないくらい甘いのだが、なんとかバスは走りだす。

「左右のサイドミラーとバックミラーを常に見ること。」

「長さがあるから普通に曲がったら巻き込んじゃう。車体の感覚は体で覚えるしかないよ。」

何度も、何度も、カーブを曲がる。田倉社長は根気強く、ぼくたちの運転に付き合ってくださった。もちろん、1日でマスターできるわけもなく、7日ほど運転の練習を繰り返した。そうして、ようやく車通りの多い一般道に走りだす自信がついたのである。

練習の合間に、田倉社長にはたくさんのお話を聞かせていただいた。

田倉社長は父親の会社が倒産したことで、高校を中退して働きはじめたという。運転が好きだったから、運転ができる運送会社に就職した。しかし、体調をくずして退職。そのころ、大切にしていた車を売って、そのお金で「中古バス」を手に入れる。

 参考:バスオタク社長が目指す来年上場、訪日客相手に中古1台から急成長

そう、田倉社長は自らが運転する1台のバスで起業したのだ。それが、現在では400台以上のバスとバスの運転手を抱える大企業に成長させた。

「昔は、社員のひとりひとりに俺が運転を教えてたんだよ」

当時を、思い出しながら聞かせてくれた田倉社長。ここまで読んでくれたあなたに、その人柄が感じられる物語の一端を聞いてほしいと思う。

自分の幸せの価値観って自分でわかるでしょ?」田倉社長の物語





はじめて高速道路を走ったときは怖かったね。首都高で大型トラックとすれ違うときなんか、車幅がギリギリだから。乗ればわかるけど、手に汗が相当でちゃう。オートマなら余裕があるかもしれないけどマニュアルだからね。なかなか一般の人はバスの運転はしづらいよね。

実は、今年になって大型バスではじめてのオートマが誕生したんだよ。これまでは「変速ショック」といって、オートマがオートでギアチェンジするときにうまく作動しなかった。ギアチェンジの必要がないのに、勝手にギアチェンジしてウオオオン! って空回ったりね。そういう変速ショックがなくなった。最新の技術によってね。昔から海外にはオートマがあったりしたんだけど、それを日本に持ち込んでお客さんを運んでみると、「今日の運転手さんは下手ね」って言われたからね。運転手の思うがままに動くオートマってのがなかなかなかった。

1台目のバス? 覚えてるよ。あれはね、昭和57年製の日野の「ブルーリボン」っていうバス。いちばん大きい12mのバスだったね。大きいバスが好きだった。でも、だからこそ高速道路は怖かった。慣れちゃったけどね。そのバスは今はもうないんだ。たしか、中古で売ったんだよな。今となれば残しておけばよかったと思うバスがたくさんあるね。


──今もどこかで走ってるかもしれませんね。

走ってるかなぁ。日野の中では「750」っていう良いエンジンが載ったバスでね。乗りやすかったんだよ。昭和50年代になって、日野のバスは飛躍的に乗りやすくなった。そもそも、バスは職人じゃなきゃ乗れなかったから。ブレーキは効かないし、ギアも思ったように入らなかった。ガリガリガリ! って音が鳴ってね。エンジンの回転数が合うとスクっと入るんだけど、当時はそれが難しくてね。

事業をはじめたころは、訪日の台湾のお客さんが相手だった。それで、おれは運転手としてお客さんを乗せていた。行き先は旅行会社が決めてたけど、道路はおれが選ぶ。30年ぐらい前の話だけど、伊丹空港と瀬戸大橋を何度も往復したなぁ。家にはほとんど帰れなかったけど、運転は楽しかったよね。お客さんが観光している間はバスで昼寝したりね。ディズニーランドにいけば1日まるまる休憩だし、夜はお客さんと一緒のホテルに泊まれるし、三食昼寝つきみたいな仕事よ。バスの運転手ってのは。


──自分のバスを所有している運転手というのは、珍しかったんじゃないですか?

たしかに、日本にはそんなにいなかったね。だから、「ああアイツね」って旅行会社に覚えられてた。当時の観光バスは台湾人を載せないところもあった。外国人を乗せるってめんどくさいじゃない。言葉も通じないし、夜遅くまであっちいけこっちいけって言われたりするし。長距離で何日も運転するでしょ? 日本人相手だとだいたい遠足とか日帰りが多い。遠出はせずに毎日家に帰りたいという運転手もたくさんいたんだよ。そういう意味でも需要はあったんだよね。

それに、運転はできても営業ができないという人が多かった。おれは、自分で事業をする前は佐川急便で働いていたから、営業ができたんだよね。だから、旅行会社とバス会社の間に立って、おれが営業したんだよ。それでバス会社に取ってきた仕事をシェアしていった。今ではインバウンド観光のバス会社も増えたけど、業界では「いちばん古い会社」って言われてる。


──1台から100台になるまでに、何があったんですか?

それが、覚えてないんだよ。当時は、お客さんが増えるから、増えるがままにバスを買ってた。70台ぐらいまでは数えてたけど、それから先は数えるのをやめた。何年か経って、ふと何台あるのかなって思って「100台ぐらいか?」ってマネージャーに聞いたら、200台あったからね(笑)。今はだいたい400台ぐらいあるのかな。

ただ、バスを買うのは今でも俺なの。うちの会社の車は100%、俺が選んでる。自分が買ってるのに覚えてないんだよ。あるとき、日野自動車の人に言われたもん。「社長、今年の購入台数は48台で、関東でトップですよ」って。そのとき気づいた。「え、俺、48台も買ったの?」って。

観光バスは新車だと1台3500万円ぐらいする。ON THE TRIPのバスはマイクロバスだから700万円ぐらい。うちで台数が多いのはスクールバス。250台ぐらいあるのかな。スクールバスは行政の入札にいれてもらったのがきっかけでね。行政に仕事をやらせてもらうようになるのも大変だったんだよ。



──夜行バスも有名ですよね。「平成エンタープライズ」という会社名は聞きなれない人でも、「VIPライナー」といえば、乗ったことがある人も多いのではないでしょうか。

夜行バスに乗ると、「席を倒すときは後ろの人に一声かけてください」と言う会社があるじゃない。「なんで?」と、俺なんかは思うわけよ。お金を払って乗ってんだからさ。だから、うちの夜行バスは一斉リクライニング。時間になると、運転手さんの一声で全員で倒すわけ。

「VIPライナー」のアナウンスを聞いてみてほしいんだけど、機械の声だと言うことを聞いてもらえないから、男の運転手さんがしゃべってる。正確にいえば、男の運転手さんが実際にしゃべってる風、なんだけど。それでも座席を倒してくれない人、いるでしょ。どうしたと思う? アナウンスの前に「ピンポン! 」という音を鳴らすわけ。飛行機でピンポン! っていう音を聞くと「なんだろう?」って耳をすますよね。あれを応用したわけ。

そういうアイデアをたくさん試したよ。ぜんぶ自前でね。今では「ITバス会社」なんて呼ばれてるけど、ネットのシステムもぜんぶ自前。昔はバスの座席も選べなかったのよ。「なんで椅子選べないの?」と気づいたのは10年前。当時は座席を指定できるバス会社はうちのサイトだけだった。


──どれもニュースを見て考えたようなアイデアじゃなくて、対話の中から生まれたアイデアという感じがしますね。

俺もバスによく乗るから、乗ってるあいだずっと考えてる。どうやったらアナウンスを聞いてもらえるんだろう、ってね。お客さんに聞いてみると「アナウンスが聞こえなかった」という声が多かった。それも、「運転手さんが言ってくれなかった」って言うんだよ。そんなわけないじゃない。アナウンスはしてるんだけど、スルーされてるということ。じゃあ、聞いてもらうためにはどうしたらいいんだろう、と考える。

最初に思ったのは、運転手さんがしゃべってることに意味があるということ。運転手は男の人なのに、女の人のアナウンスの声がする、とか変じゃない。そして、「これから消灯になります。全員、リクライニングをフルに倒してください」と言うわけ。それでも、倒さない人がいる。倒してる人と倒してない人がいると、倒してない人だけ狭くなるわけだよね。じゃあ、どうしたらいいのか。

「もうすぐ消灯します」と言うだけでは、消灯時間になっても寝る準備をしている人もいるかもしれない。だから、「月が減っていく画像」を流したわけ。月が丸から徐々に欠けていって、全部なくなるまでも映像で流す。で、月がなくなった瞬間に運転手さんが「あれ? リクライニングしてない方、いませんね」って、もう一回言う(笑)。そしたら、万が一、倒していない人がいても「俺のこと?」ってなるよね。それから「ごゆっくりお過ごしください」と言うわけ。




──最近では「あそびバス」も話題ですよね。平成さんのアイデアはいつもどこかあたたかい。なんなのでしょうか、田倉さんの「根っこ」にあるものって。

プールつきの家に住んでるやつが幸せなのか、たまにプールに行けたら幸せなのか。自分の幸せの価値観って自分でわかるでしょ? 自分の生き方はこのレベルで充分です。それ以上できるんであれば、それは誰かに奉仕する。そういうふうに育ったんだよね。

うちのバス停の中には「ラウンジ」を用意したところもあるんだけど、じゃあ、どうしてラウンジをつくったのか。雪が降る中、バス停におばあさんがひとり、傘をさして立っていたとする。それって、どういうふうに見える? 寒い、寂しい、可哀想……ぜんぶネガティブじゃない。そこにやってくる乗り物って、すごく悪者じゃない? 高速バスって悪いやつだって思われちゃう。実際に、そう思われてた。だったら、悪いやつを良いやつにしなきゃいけない。バス会社から言わせれば、安く運んであげてるわけじゃない。おばあさんから言わせれば、しょうがないわけじゃない。新幹線に乗りたくてもお金がない。それなのに、みんなが言う。どうしておばあさんを高速バスなんかに載せるんだよって。

それならば、と冬はあたたかく夏はすずしい、椅子がある、パウダールームがある、そんな空港のラウンジのような場所を作った。たとえば、バス停に並んでるときにトイレに行きたくなったらどうする? また後ろからに並ぶの嫌だから我慢する? うちのラウンジなら出発時間まで自由に動ける。そこに、おばあさんがいたらかわいそうですか?

たったそれだけのことに誰も気がつかない。「平成さんは儲かってるね」「ラウンジなんかつくっちゃってね」「いやいやすぐに潰れますよ」なんて言われるかもしれないけど、ラウンジはもう8年続いてる。最近では、ほかのバス会社のお客さんも使うようになってきてね。でも、東京は家賃が高いから。ラウンジは結局、赤字なわけ。だから、やる企業もほかにいない。バス停を使う分には行政のサポートがあったりしてタダだからね。わざわざ自腹切ってまでラウンジまで作るか? って話になる。でも、うちはやる。すると、どういうことが起きるのか。孫が、おじいちゃん、おばあちゃんを連れてきてくれるんだよ。

こういうところは、わざわざアナログにしてるの。デジタルデジタルっていうけど、デジタルで予約してバスに乗るお客さんのリピーター率は低い。だから、デジタルで生まれたきっかけをリアルに変えるの、うちは。


──デジタルで生まれたきっかけをリアルに変える。業種は違えど、ぼくたちも同じかもしれない。ぼくたちのバスの旅のはじまりは、ON THE TRIPという事業のはじまりである。大先輩である田倉社長のお話は、どれも身にしみるようだった。

現在ではバス事業だけでなく、旅のツアーそのもの、ホステル「わさび」の運営訪日メディア「JAPAN555」など、「旅の途中」にある、あらゆる場所に事業を展開している平成エンタープライズ。だからこそ、「ON THE TRIP」にも共感してくださったのではないかと、ぼくたちは思っている。

「バスで物語を作ろうとしている若者に、バス会社が協力しなくてどうするんだ。」



田倉さんが言ってくれた、その言葉が、ぼくたちは忘れられない。

結局、田倉社長は、ぼくたちの旅の出発の日まで見送りに来てくださった。最初の目的地は「奈良」。VAN THE TRIPは、バスオフィスの作り方を紹介して終わりじゃない。むしろ、ここからがはじまりなのだ。

田倉社長に教えてもらった運転技術を確認しながら、高速道路をひた走る。その途中で思うのであった。ぼくたちは、この道で、どんな恩返しができるだろうか、と。

VAN THE TRIP. ぼくたちの旅は続く

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