知夫里島を知っているか
隠岐でいちばん小さくて、船のアクセスもよいとは言えない。人口は約600人しかおらず、人よりも牛や狸のほうが多いと噂されるほど。しかし、だからこそ手つかずの大自然が残されているのが知夫里島。「赤壁」や「赤ハゲ山」は小さな島とは思えないほど、大きなスケールであなたを出迎えてくれる。しかし、この島に残されているのは「絶景」だけではないのである──
「知夫里島には皆一踊りという伝統芸能があるんですけど、皆一について話を聞くなら井尻さんですね」
車の中で役場の方にイントロダクションを受けながら島を案内してもらっていると、ふと、ほかの車とすれ違う。すると、役場の方はハンドルを握りながら言うのである。
「あ、今の車に乗ってたのがその人ですよ」
一度きりではない。そういことが、三度、立て続けに起こった(マジで)。これは人と人との距離が「近い」なんてものじゃない。
「狭い!」
そう思ったのが知夫里島の最初の印象だった。
それから一週間ほど知夫里島で暮らしてみたのだが、最後の印象に残ったのは子供たち。
「この島の子供たちがうらやましい」
そう思うようになっていた。「皆一踊りの井尻さん」の項目で紹介したように、島の子供たちは伝統芸能の担い手となる。その練習風景にお邪魔させてもらったのだが、ぼくにはその太鼓のリズムがとても複雑に思えた。今から本気で練習をはじめても習得まで1年はかかるのではないだろうか。しかし、島の中学生は数日の練習で形になってくるという。
それはきっと島で生まれた時から、いや、母親のお腹の中にいるときから、もっといえば、はるか遠いご先祖様のDNAから。毎年のお祭りを通して身体に刻まれてきたから。太鼓や歌のリズムを無意識のうちに身体で覚えているからなのだろう。
そうか、これが伝統芸能というものなのか、と思った。
ニュータウンで育ったぼくは地元の祭りというものすら持っていない。だからこそ、余計にうらやましく見えた。皆一踊りだけではない。知夫里の子供たちは歌舞伎や神楽も身につける。もちろん、漁師の子供であれば漁の技術もだろうし、狭いが凝縮された社会で大人との距離感といった感覚も身につけているのかもしれない。無責任なあこがれであると承知しながらも、それが「うらやましい」と思うのだった。
語り部がいなくなる前に
今回のガイドでいちばんおもしろいのは「インタビュー」ではないかと思っている。仲野さん、南家さん、徳田さん、井尻さん、西谷さん。誰もが無名の人々だ。しかし、人は誰もが語るべき物語を持っている。取材を通して彼らの物語を生の声で聞けたこと。それ自体が何より楽しかった。
彼らの話は「知夫村史」には載っていない。村史に書いてあるような話は、ある意味ではすでに村史として残されているわけであって、あらためて書き起こす価値は小さい。しかし、彼らに聞いた話はもしかすると、ぼくが書き起こさなければ、地球上に残されなかったかもしれない物語だ。そうか、これがフィールドワークというものか、と思った。
宮本常一という有名な民俗学者がいる。「旅する巨人」といわれ、「忘れられた日本人」をはじめとする名著を残した偉人である。彼は、フィールドワークを通して、たくさんの日本人の姿をスケッチしていった。それは現在、とてつもない価値をもっている。今や忘れられてしまった日本人の姿を思い出させてくれるからだ。
宮本常一は、ぼくにとってのヒーローであるが、ぼくが書くガイドも彼が残した文書のようになれまいか。おこがましくはあるが、そんな希望を持っている。
たとえば、1億年後。地球上から人類が消えた未来があったとする。そんなある日、宇宙人が、あるいは別の惑星で長らく退避していた人類が帰ってくる。そして、荒廃した大地で謎のブラックボックスを発見するのだ。それを解読してみると膨大なウェブデータの中にぼくたちのこのガイドが含まれている。そしてそれは、忘れられた日本人の、1億年前の知夫里の人たちの暮らしを蘇らせるのだ。
「そうか、この時代の人々はこのような歴史を経て、実際にこのような暮らしをしていた人がいたのか」と。
知夫里島のガイドを利用してくれる人がどれだけいるかはわからない。もしかしたら、このガイドはほとんど使われることがないかもしれない。それでも、ぼくの声を、この島で暮らす彼らの声を聞いてくれたあなたには、ぜひ新たな語り部となってほしい。そう願っている。
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ON THE TRIP. ぼくたちの旅はつづく。