東大寺がまだこの世に存在しなかった時代のこと。大安寺は日本でいちばん大きな寺だった。それも天皇が建てた最初の寺であり、日本一の「格」を誇る寺だった──
大安寺の前身は藤原京にあった「大官大寺」。大官とは「天皇=大王(おおきみ)」のこと。大きな寺という意味だけでなく、大王の寺という意味も持っていた。
そして、710年。奈良の都に移されてからは「大安寺」と呼ばれるようになる。奈良時代の大安寺は仏教を中心とした総合大学であり、国内外から専門家が集まるサロンでもあった。とりわけ平城京は仏教によって政治や経済が動いていた時代。日本という国のはじまりにおいて、大安寺こそが文化の発信拠点だったのだ。
しかし、現在の大安寺に残されている境内は、全盛期に比べるとわずか1/25。それもそのはず。かつての大安寺の中心にあった「金堂」はここにはない。境内の外にある民家の下に埋まっているのだ。
日本のはじまりの地で、ぼくたちの旅もはじまった。
ぼくたちの最初の旅は「奈良」でした。「大和」という、日本のはじまりの地である奈良は、これから日本中でガイドを作っていくぼくたちにふさわしいスタート地点だと思ったのです。ぼくたちは日本をまだ知らない。ぼくたち自身が日本という国を理解していくにおいて、あらゆる歴史や文化のベースになっている奈良を学ばせてもらうことが先なのかもしれない。それこそ、すべての道はローマに通ずるように、日本におけるすべての道は大和に通ずるのかもしれない、と。
バスをオフィスにして、実際に現地で暮らしながらガイドをつくる。そのためには駐車場が必要です。埼玉のガレージから動かすのはいいけれど、奈良でバスを停めさせてもらえるような知り合いはいない。ただでさえ、「バスで暮らしている」というフレーズが怪しいのに、ON THE TRIP という会社にしても、まだなんの実績もない。そんなぼくたちの話を聞いて、それでも、「好きなだけうちに停めても構わないよ」と言ってくださったのが、大安寺の貫主である河野さんでした。
2017年の夏、高速道路をひた走り、大安寺の駐車場に到着。最初は2,3ヶ月の滞在予定でした。しかし、市や文化財との公式提携を前提にしたガイドづくりは困難を極め、気がつけば半年を近い滞在になっていました。駐車場に停めたバスの窓からは、大安寺の整えられた裏庭が見えるのですが、ぼくはその景色を箱庭の「絶景オフィス」として密かな楽しみにしていました。
その景色は盛夏の緑から、秋の紅葉に色づき、そして葉が落ちきって窓も曇る冬景色になっていたのです。河野さんをはじめとする大安寺のお坊さんたちは、それでも嫌な顔ひとつせずに、寒くなってきたころには「うちに余ってるストーブがあるから持っていきなさい」「空いている部屋もあるからいつでも使いなさい」と、節々でぼくたちのことを気にかけてくださった。お坊さんと暮らしの中でお話をさせていただくのははじめてだったのですが、仏教とはこれほど人間の器を大きくするものなのか、と日々驚かされました。
実は、ぼくたちが河野さんのメールアドレスを知ったのはつい最近です。ガイド制作において、それを必要としなかったからです。すぐそばで暮らしているのだから、インタビューはもちろん、原稿の修正、写真の確認、音声の確認など、そのたびに大安寺にいる河野さんに会いにいきました。アポすらいらなかった。場合によっては失礼なことかもしれませんが「河野さんいらっしゃいますか?」と聞いて、いなければ「いつごろまた来ればいいですか?」と聞いて再訪させてもらえばよかったのです。ひとつひとつ、河野さんの顔を見ながらできあがっていくコンテンツ。それはとても気持ちがいいものでした。
そうして約半年もの時間をかけて、リリースにたどり着きました。もちろん原稿に何度も赤字が入って大変だったという話ではありません。中には、河野さんの声で吹き込んでもらった部分もあるのですが、暮らしながらじっくりと作りこんでいけたことが嬉しかった。この「大安寺」がぼくにとって奈良における最初のガイドになったことも含めて。
境内を歩くだけでは見えないものが見えてくる。
南都七大寺のひとつ、大安寺。とはいえ、その名前を知っている人は少ないかもしれません。奈良の人に聞いても「東大寺、興福寺、元興寺、薬師寺、唐招提寺、あと、なんだっけ?」と言われるのがオチです。残るは西大寺と、そして最後になってようやく挙げられるのが「大安寺」です。
東大寺のような巨大な建造物があるわけでもなければ、興福寺のような五重塔があるわけでもない。「なんだか普通のお寺だな。」一見しただけでは、そう思うかもしれない。しかし、大安寺に眠る物語を知れば知るほど驚きました。実は、大安寺は天皇がはじめて建てた寺であり、日本でいちばん大きな寺だったりするのです。河野さんにお話を聞かせていただき、さまざまな文献を読んでいくと、はじめて大安寺を訪れたときに見た景色と、見える景色が一変しました。ぼくは、その体験をたくさんの人に味わってほしいと思ったのです。
『──現在の「南門」は興福寺から移したもの。しかし、奈良時代のこの場所には大安寺の「南大門」があった。その大きさは平城宮の朱雀門と同じ。想像してみよう。もしもこの場所に朱雀門があったなら。それだけで、かつての大安寺のスケールが感じられるのではないだろうか。実は、門の手前にある石の階段は当時の巨大な基壇を復元したもの。現在の門に比べて基壇が大きく感じられるのはそのためだ。5段しかない階段も、その地下には6段、7段、8段と、さらなる階段が埋まっている──さらに地下には地面を固めるための巨大な土壇も眠っている──「凝灰岩」を使ったこれらの基壇は、きらきらと輝いて綺麗だったからだろう。奈良時代では最も格式が高いものとされている。』
この場所に、かつては朱雀門のような巨大な門があった。だから、基壇がやたらと大きいのです。現在の門の大きさに比べて基壇が大きいことにすら気づいていなかったぼくは、たちまち基壇に感動できるようになりました。これは物語を知ることで「見える景色が変わる」ひとつの事例である。が、本当の驚きは、日本一大きかった大安寺の、その多くを「巨大な僧房」が占めていたこと。それも海外からの講師や留学生を迎える寄宿舎であったことを知ったとき。インド人の菩提僊那やベトナム人の仏哲、中国の道璿など、当時のスーパースターが大安寺にやってきて、ここで何年も暮らしながら、その知識や技術を教えていたのです。当時の仏教は宗教というより学問でお寺は大学のようなものでした。つまり、大安寺は世界中の人たちが暮らしながら交流をするサロンのような場所だったのです。例えるならば、オリンピックの選手村のようであったのかもしれない。ぼくには、そんな光景が見えた気がしました。それこそがこのガイドで伝えたい「目に見えない風景」なのです。
そして、旅は境内の外へと展開する。広大な大安寺はその遺構が町の地下に埋まっているのです。たとえば、「講堂」というお坊さんが勉強する建物があった場所には、現在、「大安寺小学校」が建っています。これは偶然なのかもしれませんが、1300年前と同じ場所で時代を超えて人は学んでいるのだと思うと、その不思議な縁に感動してしまいます。
ガイドには含めていませんが、ぼくは大安寺の前身である「大官大寺」の跡地が飛鳥・藤原京にあることを知り、その地を訪れました。現在の大安寺も農村にあるのですが、その位置は平城京を中心とした右京にある。大官大寺も藤原京とって右京に位置する場所にあるのです。大安寺よりもさらに農村化しているその場所で、確かな跡地を目にしたとき、当時の光景が思い浮かぶようでした。
たとえ、現在の建物の大きさが小さくとも、ぼくたちのような人でも、どんな人でも受け入れる学問の拠点としての大安寺は、奈良時代の姿そのものなのかもしれない。この旅を経て、ぼくは強くそう思った。だからこそ、あなたにも見つけてほしいと思うのです。地下に埋まる過去、それを知ることで浮かびあがる現在の大安寺を。