現実にはありえない金色の雲や、そこに浮かぶ幻想的な草花。
全て同じ大きさの葉が茂る木などないし、年中散らぬ桜も見たことがない。しかしどうだろう? 長谷川等伯によって描かれた景色は生命感に満ち溢れ、見るものに「これは現実だ」と錯覚させる。
智積院の収蔵庫に収められた絵は、安土桃山時代に活躍した長谷川一門が手がけたもので、その一門の長が長谷川等伯。等伯の絵は現代において国宝指定されているものも多く、日本の美術史においても欠かすことができない存在だ。
石川県の武家に生まれた彼は10歳にして長谷川家の養子となり、養父が絵仏師をしていたことから、幼少期には絵の修行に励んでいたという。養父の死後は天下一の絵師を目指し京に出たが、等伯の才能を見出した千利休の死や、息子の突然の死など、数々の災難が彼を襲う。ここ智積院にある障壁画も、息子と手がけた最初で最後の大作だった
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等伯の人生とはどのようなものだったのか? そしてなぜ、この障壁画が智積院にあるのか? その経緯には、等伯の人生と切っても切り離せない天下人・豊臣秀吉が関わっていた。そして、秀吉は智積院が京都に境内を開く発端になった人物でもある。
日本を代表する障壁画と、京都を代表する大寺院。その数奇な縁にまつわる物語をご紹介しよう。
智積院
人事を尽くせば後悔はない、秀吉を通じて結ばれた「智積院」と「等伯」の数奇な縁
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