あらゆる一流ファッション誌で撮ってきた本間寛。ON THE TRIPのカメラマンに就任。

READIO ON THE TRIP vol.11

ちょうど5年ほど前でしょうか。ぼくが日本に帰国してすぐに仲良くなった本間寛さん。圧倒的な写真の数々をみて感動したのをいまでも覚えています。最初に出した書籍の「自分の仕事をつくる旅」の、撮影をしていただいてから、プライベートでも仲良くなりました。年齢も30歳ほど離れていますが、家族ぐるみで仲良くしていただいています。

いまでも覚えていることがあります。3年ほど前。原宿にある本間さん宅に泊まった時のこと。パンとエスプレッソと、という表参道にあるパン屋さんに気づかぬうちに朝食を買ってくださり、泊まっていたぼくたちをおもてなし頂いたことがありました。息を吸うように気遣いができる人だなと思い、ぼく自身も見倣いたいと思っていました。
そして、いつか一緒に仕事ができるといいなぁと思い、こうしてON THE TRIPのカメラマンになってくださいました。しかし、意外と過去のことを知らない。そう思い、今回は本間寛のいままでと、なぜ今まで会社に入ったことがないのにON THE TRIPに入ったのか。そんなことを聞いてみたいと思います。

いっそのこと飛び込め。
考えるのなんて面倒だから

という訳で、いまに至るまでを聞いてみたいと思います。そもそも、どうしてカメラマンになろうと思ったのですか?

本間寛:ぼくがカメラマンになろうと思ったのは、高校生のとき。とにかく、写真を撮るのが好きで、フィルムを現像して完成を見るのが楽しくって。高校は、山形にある電気工学を学ぶ高専でした。まわりはエンジニア技師になる人が多かったけど、ぼくにはどこかに勤めるという考えがありませんでした。好きこそものの上手なれ。気づいたら、カメラマンになること以外、考えていなかったんですね。

でも、カメラマンになるにはどうすればいいんだろうか。郵便局に就職をして、夜間に写真を学ぶために学校に通うべきなのか。あれやこれやと考えたけど、そんなまわりくだいやり方は面倒。いっそのこと、飛び込んでしまえ!と、勢いで、山形から六本木の撮影スタジオに飛び込みました。ぼくの写真にどっぷりの人生は、ここからはじまります。

あてもなく、
片道チケットでパリへ

本間さんの若かりし時の写真

山形から勢いで六本木に…。まったく環境も違うのに、すごい行動力。最初のお仕事は、どんなことをしていたのですか?

本間寛:撮影スタジオでは、アシスタントとして、外部から来るカメラマンのライティングなどの手伝いをしていました。そうこうするうちに、何人かのカメラマンに、うちで手伝わない?とお声かけいただきました。横井滋治氏に声をかけていただき、彼のアシスタントをすることにしました。そして、次は真下伸友氏。ブツ撮りから人物、そしてテレビのCF撮影の現場まで、あらゆる仕事を見て学んでいきました。

すると、自分の中でふと、海外を見てみたいという思いが強くなっていきました。当時の写真の中心といえば、ニューヨークとパリ。どうしても、本場を見ておきたい。そう思った自分の気持ちは裏切れません。真下さんや知り合いのモデルに、パリで活躍しているYoshiさんを紹介してもらいました。

そして、気づいたら飛行機の中。Yoshiさんとは連絡も取れていませんでしたが、思い立ったが吉日。片道チケットと連絡先の紙を握りしめてパリへと向かって行きました。

パリに到着したら、10日で30,000円ほどの安ホテルに滞在しました。その間、なんどもなんどもYoshiさんに連絡しましたが、一向につながらない。季節は冬、街中をふらふらと散策していました。そんなこんなで1週間目。ようやくYoshiさんに電話がつながりました。その日から、彼のアパートでの居候生活が始まりました。Yoshiさんや、日本のロケ隊のアシスタントをしながらカメラ片手にスナップ写真を撮り始めました。

そうすると、パリだけでなくニューヨークも見てみたくなります。8ヶ月のパリ滞在で残ったお金をつかって、ニューヨーク行きのチケットを買いました。ニューヨークでも最初はカメラマンのアシスタントをしていました。中でも、孤高の巨匠であるアービング・ペンのアシスタントをやろうと思い、話にいったら当分戻らないと聞き、以降アシスタント自体辞めようと決意しました。そこからは生活費を稼ぐためにも、日本食レストランでバイトをし、週末は街中でスナップショットを撮る、という生活でした。

カメラマンは平均じゃダメ。
個性がないと生き残れない。

ちなみに、初の海外で一番影響を受けたことってどんなことでした?はじめってとても大切だと思うんです。きっと、いまでも仕事に影響しているのかなと思い。

本間寛:このパリ、ニューヨークの滞在中では衝撃的な人と出会いました。それが、フォトグラファーのマックス・バデュクル。当時、ぼくが24歳で彼は22歳。インド系イギリス人でした。そんなに若いのに、Vogueなどの一流モード誌やカタログ撮影をしていた売れっ子でした。彼のやることなすこと、すべてがイケていた。彼は、自分の個性を活かして、撮りたいものを撮るというスタイルを持っていました。つまり、人マネでなく、自分を表現するアーティスティックな写真でした。彼からは、自分を全面にだしていいんだということを学びました。これが、いまの自分の撮影スタイルの基盤になっています。

このときから、自分は写真家として世界の中でどのポジションにいるのか。いかにして自分の個性を磨くのか。それを考えることで、未来への道標が分かるようになってきました。

世界基準で考える、
自分のアイデンティティー

なるほど。そうして日本に戻ってきたわけですね?

本間寛:日本に戻ってきたときは、根拠もなく自信満々でした。パリ、ニューヨークで撮影した写真でブックをつくり、それを元に営業をスタート。すると、雑誌でポートレイトやメンズファッション誌の撮影依頼がどんどん入ってきました。ようやく、アシスタントではなく、一人のカメラマンとして食べられるようになっていったのです。
当時の日本では、海外のカメラマンの真似をすることが一種のブームでした。そういう人に正直、仕事が集中していたのも事実です。でも、それではいずれ終わってしまう。
ぼくがとにかく意識していたことは、自分の個性です。本間寛だけが撮れるものを、撮る。今まで見たことのない、自分のアイデアを出してく。

すると、ぼくの写真を見た海外の人たちから、オファーをいただくようになりました。一番うれしかったのが、イタリアのL'UOMO VOGUE。当時、世界でもっとも認められていた雑誌の一つ。すぐにミラノにいき、いくつか撮影しました。その後パリに拠点を持ち、1年間滞在しました。その間、日本からもたくさんのオファーがあり、パリを拠点に日本やアメリカ、オーストラリアなど世界各地を転々とする生活でした。

その後、日本人の俳優やアーティストから、海外のセレブリティーの撮影もはじまりました。たとえば、ジョニー・デップ、ウィル・スミス、サミュエル・ジャクソンに、ジャンレノなど。ファッションや雑誌広告の写真を中心に活動していました。ほとんどすべてのモード誌で、仕事をしたと思います。マリクレールジャポン、フィガロジャポン、エルジャポン、シュプール、流行通信。メンズだと、ミスターハイファッション、DANSEN、GQジャパン、エスクワイヤー、ブルータスなどのファッションページも。他には、大河ドラマのスチールから、缶コーヒーや書店、ネスレ、時計メーカーのコマーシャル写真も撮っていました。

40日間かけて行った、
アメリカ横断キャングカーの旅

ちなみに、本間さんとお話ししていると、たびたび、伝説の旅の話を伺います。キャンピングカーで、アメリカを一周したときの話。あれはいつころのことでしたか?

本間寛:1999年のこと。ドキュメンタリーフィルムをつくるために、40日間かけて、仲間たちとアメリカをキャンピングカーで横断しました。
それは、まさにいまのON THE TRIPの、バンライフの原型そのもの。
西海岸から東海岸にかけて、毎日移動しながら、基本的には日々転々としてました。ごはんは、車内のキッチンでほとんど自炊。同じところには長くて2日くらい滞在する、流浪の旅でした。この旅ではアメリカの歴史観、インディアンへの認識が大きく変わりました。

この旅も含めてですが、商業写真の傍で、世界各地の秘境やパワースポットをめぐりながら、その土地の撮影を20年くらい続けていました。2005年には、Very Special Placeという写真集も自費出版しました。それを見た編集者が連絡をくれて、ランダムハウスから、カラーで出版もしました。その後ニューヨーク自然史博物館で、桜を撮影したものが展示されるようになりました。

空気は形がない。
無形のものをどう映し出すか

本間さんの写真のイメージは、人はもちろん、自然の風景をたくさん撮られているイメージです。この時から、自然の写真を撮られるようになったのですか?

本間寛:はい。このころは、人だけじゃなく、ランドスケープやパワースポットの自然の撮影も楽しくなってきました。それは、その場所がもつ意味合い、歴史に文化などを調べながら、土地のコンテキストを写し出すような撮影。無形の場の空気をつくりだすことに、興味が湧いてきました。

広告写真は、嫌いではないけど大好きではなかった。請け負い仕事ではない、アートワークとしての撮影に関心を持ち始めたんですね。あれやこれやと考えてもはじまらない。とにかく一回今までの仕事をリセットするために。

まずは山にこもって考えることにしたのです。

高尾山に山籠り。
見えないものが見えてきた

山籠り、笑。そのときにぼくもお会いしましたね。山籠りで大きく変わったことって、何でしたか?

本間寛:その山籠りのなかで出会ったのが、湿板写真でした。
これは、ちょうど幕末に伝わり明治にかけて主流となった写真の撮影技法でした。ガラス板に感光材を塗って、乾ききらないうちに撮影、現像まで終えないといけないというもの。ものすごくライブ感のある技法です。
有名なところだと、坂本龍馬の肖像写真もそう。スタジオでは4〜8秒、じっと止まってないと撮れないんです。でも、そのライブ感がおもしろくて。たくさんの人を撮りたいと思い、高尾山から原宿に出てきたのが、ちょうど5年前のこと。暗室を併設した、アトリエを借りて、撮影をはじめました。このときの湿板写真のアートワークは、2016年のパリ個展につながりました。

人生はいつだって、
ON THE TRIP


さて、最後にこれからのことについて、伺わせてください。いま興味があるのはどういったことですか?

本間寛:いま興味があるのは、湿板写真で、人だけではなく日本各地の文化財や風景を撮ること。ハイエースを改造して、移動暗室をつくって、日本各地をめぐろうと思っていたところに、ON THE TRIPの話がありました。成瀬くんとは長い付き合いだし、人生ではじめて、会社にジョインすることにしました。

いまは、一緒に日本各地の文化財を撮影しています。日本に伝わる目に見えない物語をも、写真で魅せられるようにしたい。だから、デジタルだけではなく、フィルムでも文化財を撮っています。どこかで、ON THE TRIPで撮影した写真を展示できれば最高ですね。

ぼくは常にこう考えます。自分の興味があるものを、つくり続けたい。それがなにかはその時々に変わるけど、いまつくり続ける、進行形にこそ興味がある。それは、まるで旅のような感じで、日々、転々と暮らしていくようなものなのかもしれません。それが、自分にとって心地のいいことなのだと最近感じています。

だから、ON THE TRIPの思想は、自分の考えていることと、合っていると思うんです。
これからどこに行き着くかは、これからのお楽しみということで。


これから本間さんともご一緒に、日本各地の文化財、自然の風景をバンでまわりながら撮影していきます。本間さんの写真をここまで贅沢に見られるガイドは、ON THE TRIPの強みだと思います。内容もそうですが、ぜひビジュアルにも注目していただければと思います。

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